こぶれ2017年9月号
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 その日、八月九日は抜けるような蒼天。 いい日だぞ。 五歳の筆者にとって心躍おどる日の始まりの予感。「だれと何なんばして遊ぶ」。だれかが思いつかない。 一つ歳下の弟、乳飲み児ごの弟たちでは、ちともの足りない。 近所に同じ年頃の友達がいなかったな。 正午になりかけた時分か。「おなかがすいた」。 友達を探すより、これが大事なことになりそうだ。(のちに午前十一時前だったことを知る) 七輪にかけたお粥かゆがグタグタに煮に立たっている。 少しの白米に麦とイモ。その飯めしの香りと言うより強いクセのあるにおいが鼻をつく。 重爆機の音を聴いたような気がします。 その瞬間、台所の上部の窓ガラスがビリッ、ビリッと十字に割れた。その破れ目からオレンジ色の光が鈍く流れた。重い風のようだった。 「あッ!お粥が!」。思わず叫んだ。 大切な食い物が、七輪もろとも土間にたたきつけられ放り出されている。泣きたい気持ちをよく抑えた。今でも思い出したくないシーンです。 母親の動作は機敏だった。 背負った弟と、弟の手を引き、空あいた手で私をつかむと、無言で走り出した。 座敷を突きぬけ、縁台を飛び降り、隣家の防空壕に――。 気づくと母も私たちも裸足。 狭い空間に十数人。どんな異変が大空で発生したのか、大人たちの会話は記憶にない。 夕方、午後六時近く鳴滝町の入り口にかかる橋で、父の帰宅を待った。 いつもの帰宅時間に合わせた。「父とうちゃんだ」と弟。いつもの鉄カブトをかぶらず手にぶら下げ、疲れ切ったような父の顔。 開口一番「祖ばあちやん母が見つからん」と、自分に言い聞かせるような一言。 何が起きたのか一切無言。 「これ、これ」と父が手渡したのは鉄カブト。 その底に一握りのいり大豆0000があった。「食え」。 父に促うながされ、兄弟はそれぞれの口に放り込んだ。妙な汗のにおいと塩っぽい味が口中に広がる。豆はかたかった。 鳴滝町の借家には、祖母、叔母を含めた七人暮らし。金比羅山の麓ふもとにある小さな川の流れに沿っていた。 原爆投下の中で中心地から金比羅山が防壁、タテになり鳴滝町は無事。救いの山になりました。 祖母は早朝、実家のある西彼西海町の菩提寺にお盆のお参りと迎え札をいただきに遠出、大橋町のバス停付近で被焼した模様です。 翌日から父と叔母は爆心地を、祖母を求め探し回りましたが、一切不明のままでした。 被爆者の平均年齢も八十一歳を超え、戦後七十二年。 被爆の地獄絵図も分からず、語り部のように惨状も話せません。 あるのは吹き飛んだお粥と、いり大豆の味だけ。 これが筆者の原爆体験です。 子供の心象風景をつづりました。 題名が大おお仰ぎようでしたな。戦後72年、原爆と長崎の夏2

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