こぶれ2018年10月号
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みどりの風著・三軒茶屋ニコ このごろ知人、先輩など亡くなられる人も増え、ふと寂しさも増していきます。  亡き友と 文学談義 夢夜長  秋の夜長に限らず、この頃の短夜も銀座、新宿の酒場、おでん屋で深夜友人と談笑している夢をよくみる。覚さめると相手は既にこの世の人でないことに愁然とする。 これは昭和六十三年ごろ地方紙に掲載された福田清人さんの「私の別れ」と題するエッセーの一節。この原稿は、その地方紙に掲載するために尊敬する福田清人さんにお願い、快諾を得たものです。杉並の自宅で「これまで大学や同人雑誌仲間の鬼籍に入ったものが多く弔辞も何度も読み、追悼記をいくつ書いたことか」とポツリ、ポツリと語っていたのが妙に記憶にあります。 ちょうど梅雨のころだったと思います。 福田さんは児童文学者で日本児童文芸家協会会長を長年務めるなど芸術文化に多大な功績がありました。 東彼波佐見町出身で、福田さんの心はいつも古里にあった、と言っていい。晩年になってますます加速したようです。 「故郷を離れた人は、いろんな理由からその戸籍を現住所に移してしまった人がいる。 しかし、私は(波佐見町宿郷七三五番地)を移さない。たとえ家なし、土地は失われていても波佐見の宿に原籍があるということは、強く私には故郷があるという実感を与えてくれる」と言う、生き生きしたまなざしが忘れられない。 福田さんの少年時代の〝原籍地〟は長崎港を抱く岬――土井首村の磯道(長崎市磯道町)だ。祖父がかつて村長を務めた縁もあり、医師である父に伴われ、家族で移ったのが八歳。 岬との出合いは好奇の地となり、さっそく「海のジプシイ」の題材に。 半自伝的児童小説「春の目玉」を代表作に「岬の少年たち」「天正少年使節」など数多くの名作を生むきっかけにつながります。 「この地は、私の思い出に深く刻まれて文学の原郷ともなっている」と酒席で珍しく福田文学を開陳したこともありました。 長崎市諏訪神社境内にある文学碑には「岬道おくんち詣での思い出も 清人」。 福田さんにはあの岬がずっと息づいていた。 岬に絶ちがたい愛着があるように古里への〝熱き思い〟も人一倍でした。母校大村高校(旧制大村中学)をはじめ県内三十余校で作詞した校歌は、児童・生徒に親しまれています。 校歌の中には原郷、波佐見の波佐見高校もある。野球の県内強豪校でいずれ甲子園に。 ここで金足農(秋田)に負けぬ健闘で何度も何度も聞かせてほしい。 福田先生にです。 脳こうそくで倒れた後も半身不自由のため口述筆記で踏んばります。’95年6月に亡くなりました。90歳。 古里、文学、校歌など「福田さんには別れはない」。児童文学者 福田清人さんメロンの種を捨てていたら、芽が出て、いま大きいメロンが4~5個なっています。品種は分かりません。(島原市の天秤座の乙女ですさん)おばさんも、今度から種は庭に捨てるようにします。新品種かも知れないので名前を付けましょう♪ 「天秤座の乙女」、でどうですか?2

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