こぶれ2021年2月号
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みどりの風著・三軒茶屋ニコ 新春の風景と言えば、南松新上五島町有川の鯨唄の祭りが浮かびます。 きっと同町の歌人・立石卓さんの皇居歌会始の入選歌を思い出すからでしょう。 「われら打つ 鯨まつりの 太鼓の音おと 寒かんの潮鳴る 方かたへとよもす」 昭和五十年度の皇居歌会始の入選歌の作品。同町は慶長年間から鯨捕りの歴史があります。 その有川鯨組の守護神・弁めー財ざい天てん祭りの勇壮な風情を御題(祭り)に託しました。正月十四日、町内の青年たちが弁財天宮に鯨唄を奉納し、祭りの開幕。 祭りは、元禄時代に始まる。 五島藩有川と富江藩魚目の有川湾の海境争いがきっかけに。実に三十年も続く。有川の庄屋・江口甚右衛門が鎌倉弁財天に祈願したところ、有川側に勝利の裁き。以来、弁財天を町内にまつる。 漁場の宝庫だった有川湾。獲物のスーパースター的存在が鯨。船で追い、銛もりで突き獲る。 元禄年間は網捕りの併用も。最盛期は年間六十数頭の捕鯨記録もある。 一般的には体長四㍍以上を鯨。それ以下をイルカと呼びます。 体長二十㍍の鯨から二百樽たるの油がとれ、一樽を仮に銀六十目(現在値に換算すると約十万円)で、一万樽は八千五百余両(現在値、約十億円)。 鯨は赤身を食用にしたが、白肉は油を取って灯油、油を取れば白肉とし食用。さらに骨を砕いて肥料にするなど一切捨てるところはなく 〽 祝いめでたのわかまつさまよ 祝唄でも知れるように、鯨一頭捕れれば七浦(港)潤うるおったものです。 有川鯨組は湾内に鯨が途絶える明治末期まで捕鯨集団として知られています。大漁、祝い事、「年の初め」「旦だん那な様さま」など祝唄も数多い。 鯨唄は保存会もあり、地道な活動で島の文化遺産を支えています。 祭りの圧巻は――。青年たちは、そろいの着流し、青竹に刺した太鼓を打ち鳴らし、捕鯨に縁のあった場所を練り歩きます。かつて先人たちが、鯨に挑んだ海を背景に。 本県は捕鯨との関連も深く、有川の五島列島をはじめ隣接する西海市の平ひら島、江島、松島それに生月(平戸)、壱岐あたりまで。回遊する鯨の〝通り道〟に当たり捕鯨が盛んでその名残りもあります。 なかでも有川は、海境争いとドラマチックで舞台装置もよく、立石卓さんの創作意欲をふるい立たせ、永遠不朽の名歌につながったのでしょう。 〝海の狩人〟の末えいの健在ぶりがたくましく、名歌のふるさとも重なり、新春の上五島の荒波が見たくなりま した。弁めーざいてん財天祭り2

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