こぶれ2021年5月号
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みどりの風著・三軒茶屋ニコ 長崎街道は長崎―小倉(北九州市)間二十五宿、二百三十八㎞。脇街道は時津(西彼)に出て彼杵(東彼杵)に船で渡りました。 この街道は長崎と江戸を結ぶ華やかなシルクロードとも。 オランダ甲比丹(商館長)の行列は江戸に上り、長崎奉行は長崎に下る。出島から取り入れた西洋文化を江戸に伝えるルートでした。 この道をクローズアップしたのは、往来した顔ぶれの多彩さにあります。 坂本竜馬、高杉晋作ら維新の立役者をはじめ、頼山陽、司馬江漢、杉田玄白、さらにシーボルト、ツュンベリーなど文人墨客、医師、留学生など枚挙にいとまがありません。 その昔? 元気おう盛な頃ですが、この街道を取材で歩きましたよ。 さわり部分の長崎―本県境の彼杵の宿まででしたが、車時代の本格的な到来と土地開発ラッシュの中で昔の街道はどうなっているのか。 先人たちの時を超えた息遣づかいをせめて求めてのひとり歩きでした。 長崎の町は蛍茶屋まで。古い石橋の一の瀬橋から街道がスタートします。日見峠を越え網場の町へ。道は国道を横切って丘に突っ込みます。そこは既に雑草に埋もれていました。 が、矢上の宿、井樋ノ尾峠(西彼多良見町)の〝殿様街道〟、道標となった鈴田峠の大石。盛衰語る、彼杵の宿など時代の面影がまだありましたな。 なかでも久山(諫早市)の峠口にある名物の井戸。竜馬、晋作らがのどを潤したはずです。 大業にカッカッと燃えていた彼らに水の冷たさがわかったかどうか。 こんな思いをわかせる〝ロマン街道〟でもありました。 筆者もノドがかわき、一口と思いましたが、腸が弱く生水はダメなので遠慮しましたが今となっては、飲んでおけば……という惜念も。 物書きとしては不合格です。こんな気弱さでは……ハイ。 時期を同じくして長崎青年会議所のメンバーが小倉を起点に長崎街道を歩き抜く旅に出たとニュースがありましたことを思い出しました。 これをきっかけに長崎街道の歴史を再発見し、人々とのふれあいを求め、ブームが始まりました。ブームよりもコロナ禍の今、旅の原点を考えるいい機会でした。 歩く。単純明快で体力と元気さを表す言葉です。 健康長寿の時代になってウォーキングというしゃれたカタカナ語に。筆者は「歩く」方がいい。 このところ腰痛、ヒザの痛みが相次ぎ「イタッ、イタッ」と情けない。長崎街道も遠い道になりました。 それでも家人に「ちょっと歩いてくる」と外に出るのが日課。 猫がかっぽする路ろ地じ裏うらのノラ猫街道をぼちぼち。 戦いすんで日は暮れるの心境ですか。 長 崎 街 道2

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